春になると様々な学習塾のホームページを見ながら、学習塾の先生方がどんなお取り組みをされておられるのか、どんなお考えを持っておられるのか、勉強をさせて頂く事にしています。
その中で、「何のために勉強をするのか目的をはっきりさせる」といった表現が年々多くなっていると感じています。
つまり、「何のために勉強するかがはっきりしていないから勉強ができないケースが多い」という事を言っているのだと思います。そして、塾で「何のために勉強するかをはっきりとさせます」ということでしょう。
何のために勉強をするのか?
はっきりと目標設定ができるお子さんは良いですが、私の小、中、高校の学生時代を振り返ってみても、明確な目標を掲げて、その実現のために邁進するというのはなかなか難しいのではないかと思うのです。
もちろん、
短期的に次のテストでは○○点を目指そう!
といったような、目先の目標設定はできたとして、そして、それを目指すことはできたとしても、本質的な意味で 「なぜ勉強をするのか」 といった深い意味で捉えた場合、生徒本人はもちろん、どんな塾でも大きなテーマであることはまちがいありません。
そして、これらの話を裏付けるように、保護者の皆様とお話をする中でも、よく 「この子は将来したい事がまだ見つからなくて勉強に身が入らないんです」 といった言葉を耳にします。
この話は、特定の親御さんの話では無く、既に一般論化していると思います。
親が(=社会が)こうした考えを持てば、子供は “したい事がみつからないからだめなんだ” とか、“したい事がないから勉強できない” という気持ちは更に強まり、結局は、“将来したい事が見つけられない事” が、イコール、勉強しない事、出来ない事の理由づけになってしまっているような気さえするのです。
一方で、社会経験の少ない生徒達に、世の中にどんな魅力的な仕事があって、どんな魅力的な世界が自分に向いているのかを知ること、また感ずることは、多様化した現代社会ではますます難しくなっているといってもよいでしょう。
そうした中で、「目標を持ちなさい」、「将来就きたい職業を見つけなさい」といっても、正直なところ無理があるのではないかと思いますし、見つけられないことも自然である様な気もします。 学校では職業観の育成の指導は盛んにされておりますが・・・。
なぜならば、また、例えば・・・といった方が良いでしょうか、私が学生時代、親や先生から「こんな仕事が向いているのではないか」と薦められたいくつかの仕事は、今にして思えば、私がその後の人生の中で選択できたであろう、数限りない職業の中で考えれば、ごくごく一部でしかなかったことを今になって初めて知るのですから。
もちろん、狭い範囲でも良いから、また途中で変わっても良いから、とりあえず目標を持つ為に具体的な職業や方向性を決めたほうがよいという考え方もありますが、私は敢えて、自分が「これをやりたい」と思うまでフリーにしておくことも良い事だと思っているのです。
では、
どうして勉強するのか?
という事に答えを出し、勉強する為の動機づけをするのか?
ということですね・・・
これは、次回ブログ、一カ月後へのお楽しみという事にさせて頂きます。
このブログを読んで頂いた皆様も是非お考えください。
4月に入ると新年度が始まり、やっと全ての受験が終わったという実感がわいてきます。
高校入試はともかく、大学受験は、私達が高校だった30年前と比べますと、ホント受験シーズンが長くなりました。様々なスタイルの推薦やAO入試、前期試験、後期試験・・・など受験スタイルの多様化がその一因ですが、10月から3月末まで、ほぼ半年が受験シーズンと言っても過言ではありません。
受験生の皆さん本当にお疲れさまでした。また、影に日向に支えてこられたご家族の皆様のご苦労にも頭が下がります。
さて、こうして長い受験シーズンが終わって、今受験を振り返りますと、やはり今回も 「英語を制する者は受験を制す」 という印象が強く残りました。
私は、文系・理系に分けた際には明らかに理系でしたし、英語は苦手でしたから、今でもこの傾向が実は面白くないのです。
「英語ができなければ好きな理系教科も希望するレベルや内容で学べなくなってしまうなんておかしい!」と。
「英語は苦手でも、理系教科なら任せて!という人だって多いんだから!」と。
さらには、「日本の英語は単なる受験英語で実際には役立たないんだから!」と。
学生時代を含め犬の遠吠えの様に言ってはみても、むなしい結果に終わるだけです(笑)。
そして、現実には、理系がいくら得意でも、英語ができなければ希望の学校に進めないケースが多く、特にトップレベルの学校ではその傾向が顕著です。そして、その傾向はますます強まっていると感じるのは私だけではないでしょう。
先日も、ある高校の英語のF先生と話をする機会がありました。F先生に私のこの想いを話をしたら、「その通り!」と正に膝を叩いて同意して頂きました。その時初めて知ったのですが、何とF先生は、理系受験で大学に進み、後に英語の先生になられたという、ちょっと変わった経歴を持たれ、大学受験において英語の果たす役割を身をもってご経験された方なのです。
好きと嫌いとにかかわらず、英語は無しでは通れない時代になってきました。(私としては「残念ながら・・・」という表現を使いたいくらいです)
それゆえ、どの学問にも、どの分野でも、必須の共通基礎知識となってきているわけで、何なら日本が日本語と英語の2ヶ国語を公用語としたら子供達が楽になるかもしれないと思うくらいです。
一方で、日本の受験英語は、
・ 短時間の一夜漬け勉強が通じる科目ではなく
・ 学習習慣をつけた学生でないと高得点が取りにくい
・ 積み重ねによって安定得点につながる
という点において、努力が評価されるという点においては、基礎力を図る良い尺度。
と言える部分もあります。
大学受験のみならず、その前哨戦である高校受験でももちろん同じような事は言えるわけです。
英語が苦手な私であればこそ言わせて頂くと、「英語はやった分だけ力がつく。辛くても、大変でも、あきらめずにコツコツ努力を重ねる事で、ジワリジワリと得点に結びつく教科。」です。そして、それは、学習の基礎力を養い、他教科の成績アップにもつながります。
今年度はぜひ、和田塾で、英語克服元年。英語力飛躍的アップ元年。にしましょう!!!
2012.4.10
大場規之
皆さんは石毛秀樹選手をご存知でしょうか?
昨年末、アジアサッカー連盟の2011年年間最優秀選手賞を受賞した清水西高校2年生です。
富士市出身でもあり、静岡県の選手と言う事で興味がありましたが、たまたま先日NHKラジオで彼のインタビュー番組を聞く事ができました。
彼の生い立ちから、サッカーへの取り組み、将来への夢など、多方面でなるほどと思う話が出てきましたが、次の内容が私には大変印象に残りました。
お父様のアドバイスで続けた練習の中で最も象徴的なものは“リフティング”。
今日は昨日よりも、明日は今日よりも、絶対に回数を重ねる。それを達成するまでは寝られない。
本当につらい時もありましたし、止めてしまおうと思ったこともありましたが、決めた事を何とか続けたい、その一心で続けました。しかし、その練習があったからこそ今の自分があり、その中で「苦しさから逃げない」という生き方を学びました。
という内容です。
「苦しさから逃げない生き方」
これは、胸に刺さりました。
進路が既に決まった生徒もありますが、受験の最終盤の今、中学3年、高校3年、浪人生、多くの塾生が目指す学校への入学を果たさんがために日夜頑張っています。
生徒一人ひとりの悩みや苦痛、種類や程度の違いはありますが、受験生は長い間大きなプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、ストレスとも戦って、ひたすら目標を達成するために努力を重ねてきました。
あと少し、踏ん張って、全塾生が目標の学校に進学できる様に心から願っております。
さて、“受験を乗り越えることの価値”は、勉強をして知識や実力をつけることももちろんですが、こうしたプレッシャーやストレスと闘いながら目標を目指す中に自らの成長を見つける。実現する。という事が多分にあることは皆さんにも認めて頂けると思います。
石毛選手が自信を持って「苦しさから逃げない生き方を練習の中で身につけた」と言った様に、今受験に臨んでいる子供達が、同じように「苦しさから逃げない生き方を受験を通して学んだ」と自信を持って言えるように、成長して頂きたいと、石毛選手のインタビューを聞きながら思いました。
和田塾のホームページでも触れている様に、私達講師が目指すのは、選手(塾生)の為の“名コーチ”です。
石毛選手のお父様は素晴らしいコーチ役を果たされたわけですが、私達講師も、そうした役割を果たさなければ行けません。
塾生が、「苦しさから逃げない生き方を和田塾で学んだ」と言って頂く事も、私達の目標の一つにすべきである事を、石毛選手のインタビューを聞きながら再認識をした所です。
2012.2.10
大場規之
今日また、“反抗期”という言葉を耳にしました。
じつは先日も塾の講師との話で、こんな話があったばかりです。
「受験生の塾生が反抗期で、お母さんが話ができない(=コミュニケーションが取れない)ので困っている。私(=講師)が間に入って話をしている」と言う内容です。
和田塾の講師の出番が増えて、またお役に立てて大変嬉しい話でもあるのですが、私は“反抗期”という言葉を聞くたびに思う事があります。
“反抗期”という言葉で子供の課題を片付けてはいけない。と。
この言葉を使う事によって、“反抗期なんだからしょうがない”と、親も周りの大人も、子供達の抱えている課題や問題を、解決しなければいけない課題とわかりつつも“あきらめて問題の解決をしようとしない”傾向を感じます。 また更に、抵抗力の強い子供に対してこの言葉を使う事で大人が楽になろうと言う感じを受ける事もあります。
反抗期と呼べるような時期があることはもちろん認めますし、私も親ですから実感として良くわかります。
しかし、反抗期でも、例えば、前述の親と話すべきことは話さなければなりませんし、最低限の生活上のマナーを守らなければ、また、守らせなければいけないはずです。反抗期だからと言って放置する、またはあきらめてはいけないと思うのは私だけでしょうか?
私は心理学や青少年教育の専門家ではありませんが、確かに、反抗期といわれる自我の芽生えの時期や、思春期の時期は、そうでない時に比べて、親そして大人の言う事に反発しがちですし、言う事は素直に聞かない傾向はより強くなります。
が、私達大人は、反抗期でない時期にかけるエネルギーの何倍を費やしてでも、するべきことはさせる。守らせることは守らせる。という心構えで子供達に接しなければならないのではないかと思います。
私自身も、子供の成長と共に、親としてのしつけや指導が、簡単に行かなくなっている事は感じますし、親の勝手な考えをそのまま受け入れる様な事は無くなってゆく事を実感しています。
親の想いと子供の考えのギャップもどんどん広がってゆきますし、その溝はどんどん深まっていくことも事実でしょう。
でも、それを“反抗期”という言葉で簡単に片づけてしまうのではなく、真正面から子供と向き合い、時間とエネルギーを掛けて、その溝を埋める努力をすることこそが必要ではないでしょうか。
“反抗期”という言葉で片付けないおとなとして、私自身も日々子供に向き合ってゆきたいと思います。
2011.12.10
大場規之
昨日カナダから来られたお客様が、こんな話をされました。
Aがモノを置き忘れた
↓
Bがそのモノを盗った
日本では、Bの、「モノを盗った行為」に対して非難が集中する。
Aの、モノを置き忘れた行為には少しの注意。
カナダでは、Bの、
モノを盗った行為ももちろん非難されるけれども。
Aの、「モノを置き忘れた行為」がかなり非難される
日本は、自らの行為に対する「責任」が希薄の様な気がする。と。
すなわち、自己責任の意識が低い。と。
少し前も、やはりアメリカと日本の考え方の違いで、こんな話がありました。
何か、不十分な理解で起こしたミスに対し、
日本は「理解できませんでした」で済まされるケースが多い気がするけれども、
アメリカでそれを言えば、「なんで理解できるまで聞かなかったんだ?」と強く非難される。
「理解できるまで聞かなかったあなたは責任が大きい」となるんだ。と。
アメリカ社会ではこんなところで「自己責任」を問われる。と。
自己責任と言って良いのか、その言葉が適切かどうかわかりませんが、
最近特にこの「自らの行為で起こった事に対して自らが責任を取る。他人のせいにしない。」という当たり前の事が当たり前で無くなっている傾向が強くなっている気がします。
働ける健康な若者達が、自分に適した仕事が無いと言ってゲームをしながら、生活ができないと言って生活保護を受ける。
遊興費のために借金を重ねて苦しくなりながら、金利の高い借金をさせる環境を放置してきた社会が悪いと平気で言う。
毎日のニュース、報道を目にし、耳にすると、悲しい気分にさえなります。
冒頭で日本と海外を比較をしましたが、全て日本が悪くて海外が良いという事でもありません、
例えば、昨年トヨタのプリウスなどのハイブリッド車が急発進、急加速などで死亡事故を何件か起こしたという事件。国レベルでの争いにまでなったこの事件も、トヨタの謝罪と多額の補償、リコールで一応おさまりました。その後の、何ケ月後かにひっそりと発表されたアメリカ側の様々な機関の結論は、トヨタ側にシステム上の不具合はなかったと言うものでした。あの騒ぎはなんだったんだとトヨタは言いたいでしょう。
これなどは、アメリカの「行き過ぎた感のある消費者保護」の一例かもしれません。
「消費者は何でもメーカー・サービス提供者のせいにすればよい」とでも言えるような、自己責任とはかけ離れた所にあるようなアメリカの姿です。
いずれにしても、こうした自己責任が希薄になってゆく背景に、生活の豊かさ。があるのではないかと思います。豊かになって、緊張感が減り、今の幸せは永久に続く。何か問題が起こるとすれば自らにあるのではなく、他にある。といった考え。
特に、豊かさをつくりだした世代ではなく、既に豊かさの中に生まれ育った世代にこうした考えが広がります。そして、これは、もちろん日本だけでなく、先進国共通の課題と言っても良いでしょう。
豊かさと引き換えに失った緊張感を取り戻さないと、自己責任によるメリハリのある成長はできません。
私達、現役の責任世代が、自己責任をしっかりと認識しながら生活しなければ、それを見ている子供達は、更に悲しい結果を見る事になるでしょう。
自らに責任を持って日々生活をしなければならないと思います。
2011.11.10
大場規之








